年末年始とあわただしく過ぎて、やっと一息ついた感じ。
母が亡くなって5ヶ月経ちました。昨日が月命日でした。
最近はだんだん亡かなくなり、知り合いに、母が亡くなったと話せるようになって来ました。失恋と同じで時間が救ってくれますね。
母を想って
年末年始とあわただしく過ぎて、やっと一息ついた感じ。
母が亡くなって5ヶ月経ちました。昨日が月命日でした。
最近はだんだん亡かなくなり、知り合いに、母が亡くなったと話せるようになって来ました。失恋と同じで時間が救ってくれますね。
母の体調が急に悪くなり始めた頃、私の誕生日が来ました。毎年何かするわけではないけど、母の心配ばかりしていて心が疲れた私のために友人が食事に誘ってくれました。
母の事も気になりましたが、母に話すと「行っておいで」と言ってくれました。今思うと私を気遣ってくれたんだと思います。
お昼に温めれば食べられるように煮物を作って出掛けました。
14時頃、ランチを済まして帰宅すると「煮物がすごく美味しかった」と食欲がない日が多いのに、たくさん食べた報告。
美味しい焼き肉食べて、ドライブを少して、すごくキレイな景色だったよっと、私が嬉しそうに話すと、自分の事のような嬉しそうな笑顔の母。
今でも忘れられません。本当は遊びに行かないほうがよかったのかもと思ったりしましたが、一緒に居て辛そうにしてる私より、笑顔を見せる私の方がいいんだなと今はわかります。
母は愛情をたくさん与えてくれていたのだと…居なくなって初めて素直な気持ちで母の事を思えるのかもしれません。
変な話し今の方が、母が好きで母の事を考える時間が多いんです。
母が恋しくて、会いたくて不思議です。
母が亡くなって2ヶ月、もうすぐ2回目の月命日です。
四十九日までは感謝の気持ちもありましたが後悔ばかりして自分を責めてました。もっと何か出来たんじゃないか。何でやらなかったんだと…。もっと二人で出掛ければよかった。旅行もしたかった。食事も。
もっと喜ばせたかった。なんで小さなことで怒ってしまったんだろう。もっと優しく出来たのに…、もっと要領よく介護出来たのに…と毎日泣いていました。
四十九日の法要が終わった頃からそういう気持ちがなくなった分けではないけれど、亡くなる直前の母の穏やかな少し微笑んでいるような安心したような顔を思い出すことが多くなり、母がくれたたくさんの愛情を感じるようになりました。
生きてる時は分からないもので無くなって初めて感じる愛情。無償の愛がどういうものか教えてくれました。私の中に母がたくさんいる。
生きてる時より一緒にいる気がします。
母に会って、今私が思ったり感じたりしてること話したいな。
私が母から聞いた母の生い立ちを書こうと思います。
母は昭和15年東京下町で3人兄弟の末っ子として生まれました。お姉ちゃんとお兄ちゃんがいます。
おばあちゃんやおじいちゃん、叔父叔母にすごく可愛がられたそうです。
母のお父さん、私のお祖父ちゃんは戦争で海外で亡くなったそうです。お祖父ちゃんのことはあまり覚えてないのか話したくないのかあまり話してくれませんでした。
そして母の母、私のおばあちゃんは私が知っているお祖父ちゃんと再婚しました。子連れ同士の再婚で当時はそういう結婚が多かったようです。東京下町から横浜へ転居しました。
子供の頃の事はあまり話しませんが、新しい妹達とケンカするとお父さんから出ていけと怒られて悔しかったと話してました。
当時の横浜はアメリカの軍人さんで賑わっていて、おばあちゃんは理容師だったので、お店に来た軍人さんにチョコレートや食べ物をよくもらったそうです。ベイビーと呼ばれたりしたって笑いながら話してくれました。
あと、よく話していたのは、母は勉強が好きでどうしても高校へ行きたかったそうです。担任が家まで来て行かせて上げてほしいと頼んでくれたのに、お父さんが「女に学問はいらない」と行かしてくれなかったそうです。
そのため母はお母さんの理容院の手伝いをするため理容学校へ通いました。私が子供の頃、高校だけは行きなさいとよく言っていました。
私が想像出来ないような時代だったのでしょう。続きはまた。
今朝夢を見ました。私と姪が布団で寝ていて、真ん中に母が寝てます。三人でふざけて足を乗せあったりしていました。
私は母が死んでることはわかっていて、
「何でいるの?」
「不思議だけど、たくさんさわっておこう。」
と、思いっきり母の足をさすりました。その感触が今でも分かるくらいです。
母がベッドから降りなくなってから、足を拭いたりマッサージを毎日していました。その感触に似ていて、すごく嬉しかったです。
一昨日、四十九日が終わり仏様になった母。少しずつですが私も母のいない生活に馴れてきたのかもしれません。
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夢の話ですが、母が元気に退院してる夢を見ました。その日は仏壇が自宅に届いた後 友人宅に遊びに行く予定でした。
いつの間にか家には元気になった母がいて、畳でゴロゴロしてるのです。
母を中心に私が右側、三男が左側でじゃれあってます。楽しく会話してると母が手を握ってくれました。今も温もりや感覚が残ってます。あれは母の手です。
私は嬉しくて涙が止まりません。
ふと、母が亡くなったことを思いだして、どうして居るんだろう。元気になっているんだから今のうちに甘えよう、このままがいいな…なんて考えてて。
母は察したのか、ありがとうと手を握り、恥ずかしいのですが私の唇にチュッとキスをしてくれました。子供の頃してくれたように口をすぼめてチュッて。その感触も生々しい感じで
死んだと勘違いしてゴメンって泣きながら母に言ってました。母は笑いながら、ほんとに涙は出てるの?なんて三男とからかいます。
涙出てるよーと母の足に拭った涙を擦れつけたときに、ふと今日仏壇屋さんが来たら友達に会うんだと思いだし、窓の外が暗くなっていて夜になってると約束を忘れたことにどう弁解しようか考え始めました。
迷ってる私に、母は、友達に今日電話したと楽しそうに話して来たので「お見舞いのお礼言った?」と聞くと「忘れた、連絡しなきゃ」と慌てた様子。
親子で何してるんだろうと思った時にこれは夢だと思い目が覚めました。
今日、仏壇が届きその後友人に会う予定なので不思議です。お彼岸だから母が会いに来てくれたんでしょうか。母が握ってくれた感触がまだ残ってて涙が止まりません。
夢の中でも何度も言ったけど、
「お母さんに会いたかったよ。ありがとう」
「また、会いに来て」
母への想いと後悔で、亡くなってから泣かない日がなかったのに、今日は1日穏やかに過ごせました。
何かで、本音を文章にして書き出し自分の思いを見つめることがいいと読んだことがあります。
ただ頭のなかでグルグル考えて迷路に入るよりも、文章にして客観的に自分が見れて効率的です。実際は自分で自分を悲しませてるのかも。
まだまだ母のことは書いていきたいな。哀しむことは恥ずかしいことじゃないし。
でも今日はこのまま寝るのがいいね。きっと母もそう思ってるはず。十五夜の、キレイな月を見ながら母を偲ぶそんな夜🌕
「お母さん 会いたいなー。いっぱいおしゃべりしたいよ。おやすみなさい。」
母は明るく元気な人でとにかく回りを思いやれる人だったんだなぁと亡くなってから感じました。
お坊さんにお母さんの趣味や好きなことはなんだったんですかと聞かれたときに、いつも家族や友人優先で直ぐに答えられませんでした。
母は何を大切にしていたのか…家族と家だったと思います。私が中学生の時に家を購入したのですが、母にとっては自分の力で築き上げた居場所だったのだと思います。
何度もリフォームしてとても大切にしていました。
母があまり動けなくなった頃、母からもっと掃除してほしいといつも
言われていたので、私の当面の目標は家をキレイに保つことですね。
ひとりの時間が出来ると母との最後の時間を思い出し、悲しみと悔しさで涙が溢れて来ます。
訪問医療のお医者さんと相談し家で看とる選択をしました。もしかしたら母は入院したかったかもしれません。
でも今の時期に入院するということは、もう母に会えない選択をすることになります。母と会えなくなると思うと入院させることができませんでした。
亡くなる二日前、眠ることが多くなり、何も食べない母。声を出すのも辛いのに孫の心配。
みんなの誕生日にはお祝いを必ず上げてと頼まれました。
後は入院してる友達の心配。2週間後位に退院するだろうから連絡して様子を見てほしいと頼まれました。そして私の腕を強い力で握り「本当にありがとう」と大きな声で言ったのです。その時の光景が何度も思い出されて涙が溢れて来ます。
その人の人生が最後にわかると聞いたことがありますが、優しくて強い人だったんだと今になってわかりました。
そんな母を思い眠ります。夢で会えたらいいな。
母の病名は間質性肺炎でした。2年前の健康診断でわかりました。その時は初期で、医者の話だと高齢者は治療方がなく、体力を落とさないようにとの話でした。
私は重病とも思わず、うまく付き合って行けばいい病気位しか思っていませんでした。
コロナで緊急事態になり外出も出来ず体力が落ち、
体重が急激に落ちたころから悪くなっていたようです。
元気に見えていましたが、亡くなった後の母のメモを見ると、「食べれない」「ねむれない」「体重が減った」「苦しい」など、たくさん残ってました。
子供って親をスーパーマンみたいに思ってて気付きませんでした。一緒に暮らしてるのにわかって上げれなかったことが悔やまれます。